Uli

 私を憎んでいる男がいる。
 その男は中年のドイツ人で、ファーストネームはUliという。Uliはサイドグラスのついた眼鏡をかけて、長く伸ばした髪を女のように後ろで束ねている。いつもガソリンスタンドの従業員のようなツナギ服を着て、音楽を作り、詩を書く。ときどき絵も描く。風と雨、夜と月、電車とベース、ブルースとアートを、Uliは友とする。
 そのUliが、高さが十メートルもある巨大なトラックに乗って、私を轢き殺そうと迫ってくる。万国旗が風に煽られて騒々しくはためく商店街を駆け抜けて、私は大学のキャンパスに逃げ込んだ。キャンパスは閑散として学生の姿は一向に見えないのに、そこら中でチアホーンが鳴り響いていた。
 トラックは商店街を押し潰しながら前進し続け、大学の正門鉄扉を押し倒し、キャンパス内に進入してきた。
 トラックは後部に長大なコンクリート製の円筒を牽引している。円筒は両端を斜めに切断してあって、中は空洞になっていた。ときどきトラックから外れて勝手な方向に走って行ったかと思うと、また戻ってきて元通りに繋がったりしている。横倒しになった円筒には小さなゴムのタイヤがたくさん並んでいて、地面の凹凸に従ってタイヤの列がうねうねと上下している。
 私は満開の桜並木の下を走りながら、どうしてUliに憎まれるのか反省してみたが、思い当たることはない。
 
 Uliはドイツの作曲家であり、「秩序」、「パノプティコン」といった標題のついた交響曲をいくつか書いている。それは交響曲によって交響曲のイデオロギー性を批判するというもので、私の家にも何枚か彼の作品のCDがある。十年ほど前に何かの雑誌に彼のインタビュー記事が載っていて、彼はその中で他の作曲家をくそみそにこきおろし、自分はイオニア植民市に発するコスモスの思想を音楽によって相対化するのだなどと大仰な発言をしていた。
 単純で騙され易くて他人の影響を受けやすい私はUliの芸術至上主義的な発言にすっかり酔っ払って、彼の作品を熱心に聴くようになり、彼の真似をして髪を長く伸ばしてサイドグラスつきの眼鏡をかけ、ツナギ服を着て出歩いたりするようになったのだが、実はUliの作品それ自体は、聴いてみると別にどうということもないものなのだった。
 パレストリーナやヴィクトリアなどの古いポリフォニー音楽を蒸し返しただけの作品で、骨董趣味が鼻につく。それに、雑誌記事を仔細に読み返してみると、Uliは禅だの道だの桂離宮だのということを口走っていて、なんとなくいんちきくさい気がする。
 そんなこんなで私はだんだん興味を失い、ここ数年はUliの作品を聴くこともなく、彼の名前すら忘れていたのだ。
 
 髪を伸ばしツナギ服を着てみたところでUliのような芸術家などになれるわけもなく、私は早々に「無能の自覚的限定」を果たして俗人暮らしに甘んじていたのに、何をいまさらUliなどに追い回されなければならないのか。
 
 後ろを振り返ってみると、桜並木を薙ぎ倒して、城塞のようなトラックが迫ってくる。最上部の運転席を見上げると、Uliが髪を振り乱し、黒光りする太い腕ででたらめにハンドルを回しているのが見えた。眼下に咲き乱れる桜の花が邪魔になって私の姿が見えないことに苛立っているらしい。
 キャンパスの裏手の塀を乗り越えて、私は駅の方へ走った。私を見失ったトラックと円筒は、噴水の周りをぐるぐると追いかけっこしている。トラックも円筒も空気の摩擦ですっかり小さくなって、大人の膝くらいの高さしかなくなっていた。
 私は電車をいくつも乗り換えながら、だんだん東京から離れて行く。こうして複雑なコースをとることによって逃跡を消し、Uliの追及を逃れるのだ。
 
 数年後、私は各地を転々とした挙句、ある県のコンサートホールに再就職し、そこで事務の仕事をしていた。
 地方振興策の一環として国の補助金で建設された山奥のコンサートホールである。
 もう命を狙われる心配はない。Uliは私を殺すことを諦めてドイツに帰ってしまっただろう。私は勝手にそう思い込んで、すっかりくつろいでいる。特に仕事もなく、自分の事務机に置かれたパソコンでインターネットをしていると、同僚の女事務員が刷り上ったばかりの真新しいコンサートのプログラムを配りにきた。プログラムを受け取ってみると、「森のどんぐりコンサート」というタイトルが節くれだった木の枝のような文字で印刷されている。
 「おもしろいタイトルでしょう」
 女事務員が私に言った。
 「A Concert in the Woodをもじって、Acorncert in the Woodで森のどんぐりコンサート。Acornはどんぐりのことなの。おもしろいわあ、気が利いてるでしょお」
 しかし私は女の言葉など耳に入らず、プログラムを凝視していた。
 タイトルの下に、出演する楽団の演奏風景の写真が載っている。ジムベを叩くカンガルー、木管楽器を吹くキツネ、チャップマン・スティックをかき鳴らすタヌキ、バイオリンを弾くウサギ、歌う鳥たちに囲まれて、長髪を女のように後ろで束ね、サイドグラスつきの眼鏡をかけ、ツナギ服を着た男が木の切り株の上で一心不乱にタクトを振っているではないか。Uliの再来日の目的は、言うまでもない。

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